CMディレクター 仲野哲郎の「シズル」って何?120
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今日は、井川直子さんの「昭和の店に惹かれる理由」からメモしていきます。
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井川直子さんの文書は飲食店へのリスペクトが感じられて、
読んでいてとても心地がいいです。「この店、ぜひ一度おじゃましてみたいな」
そんな風に思っちゃいます。
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前書き。シンガポールのお店の掃除を見て思ったことから。。。
“二つの思いが、ほぼ同時に頭をよぎった。
「日本人ならこれはないな」と、「それはもはや幻想かも」だ。私の母や祖母の世代にとって、
「撫でる」と「拭く」とでは明確に違っていた。
昭和四十~五十年代。うちでは、食事の前に食卓を拭くのは子どもの係だった。
固く絞った布巾を当然のように手渡され、家族六人が囲む大きくて重い座卓を拭く。
欅の、天板の縁に沿って溝が彫られたデザインだった。ぼんやり手だけ動かしていたりすると、
台所から「撫でるのでなく、ちゃんと拭いてちょうだい」という祖母の声がよく飛んできた。
で、だいたいは、溝の中もお願いねと念を押されるのだった。
大人になった今、彼女たちの真意をあらためて分析してみると、
「拭く」とは綺麗にしよう、清潔にしようという意識とセットでなければならないもの。
単に布巾を動かすだけなら、それは「拭く」にはならないのだ。
シンガポールの拭き跡で気づいたのは、そういうメンタリティこそが、資源のない国・日本の資源、
つまりは命綱だったんじゃないかということである。”
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この文章は、すごく的を得てる。日本の良さ・これから進むべき方向を示しているような気がした。
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とんかつとんき 目黒
“「病院の清潔さと、神社やお寺の清潔さは違います」
病院の清潔は殺菌や消毒、対して寺社の清潔は、清浄の観念というのだろうか。
人の手で拭く、磨く。意志を持って磨き込まれるものには、その「気」が吹き込まれる。
殺菌や消毒は、時に生物が生きるために必要なものもデジタルに奪ってしまうけれど、
拭く・磨くには、生かすための力が宿るような気がしてならない。
「毎日、その時々で担当する者が一人で磨きます。三十分くらいです。決まった石鹸と束子で、
必ず木目に沿ってね、しっかり磨く。檜なのでどうしても汚れが染みやすいですから、
表面だけこすってたんじゃ取れないんですね」”
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居酒屋シンスケ 湯島
“「何となくこうしてみました、というのを僕はやめようと思ったんです」
定番料理でも、なぜこういう料理が生まれ、こう作っているのか?と改めて考えてみる。分解と再構築。
あたりまえのものをもう一度見直す作業である。
と聞いて真っ先に浮かんだのが、春菊の胡麻和えだ。初めて目の前にした時は驚いた。胡麻和えなのに、
“和えていない"のだ。茄でて切りそろえた春菊を束ねて縦に置き、フレンチのソースのように、片側に漆黒の胡麻だれを流している。”
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寿司鶴八 神保町
「お鮨のいいところってのは、食べ手の、食べたいものを、食べたい数だけ食べてご馳走さまできるってところなんですよ。
気に入ったものはおかわりできるし、気に入らないものは目の前に出てこない。
ご馳走さまをした時には、目の前に何も残らないってのがお鮨なんです」
ふところぐあいお金をたくさん持っている、持っていないも関係ない。
自分の懐具合に見合っただけ食べて、ご馳走さまをするだけ。それで完結。”
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おでん尾張家 神田
“偉くなろうが失敗しようが、会社で何があっても、人生に何が起きても。
操さんはいつもここにいて、叱ったり、あははと笑ったりしながら温かいおでんを振る舞ってくれる人。
「だってさ、おでん屋でえばったって仕方ないじゃない」
ああそうだ、白い割烹着は「母」なんだと、今さらながら気がついた。”
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渋谷 鳥福
それは貧困の時代の食を何とか支える命綱になった。また精肉代わりに食べた
ホルモンなど、生まれは代用でも後にきちんと確立され、市民権を得た食べものも多い。
ホルモンは肉の偽物でなく、ホルモンの本物だ、というふうに。
そこから一転、戦後の高度経済成長にしたがって、今度は代用を確信犯的に選ぶ時代になった。
それらの多くは「即席」「インスタント」「〇〇の素」という新しい立ち位置と
名前を引っ提げ、日本の技術進歩の象徴として、堂々と世の中へ出て行くことになる。
今や日本人の多くが、お味噌汁のだしを昆布や鰹節や煮干しなどで引かなくなったという。
昆布や煮干しを水に浸す時間と現代のスピード感が噛み合わなくなって、時間を省かじく、手間を省く、
経費を省く、そして量産の方向へ。日本はみんなで舵を切ってしまった。
丁寧に暮らせと言いたいのではない。ただ、私たちはどこへ行くのだろう?と思うのだ。
戦前のだしを知っている人には、化学的に作った味があくまでも「だし風」であることばわかる。
そして代用品として、これとあれとは別ものだと認識できる。認識できると
うことは、どちらを使うにせよ、自分の意志で選択ができるということである。
でも、もしも代用品をおふくろの味として育ったら?
お母さんの味を否定するなんてできないし、それしか知らないなら、やがてはそっちが本物になるだろう。
そうして本物の正体を知らぬまま、「本物」「偽物」の振り分けに自信が持てなくなっていく。
言いたいのはつまり、日本人が「だし」を語れなくなる日は案外近いかもしれないということだ。”
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鎌倉 田楽屋 炉端焼き
”何十年と通う、ある常連客が言った。「囲炉裏の火が一番のご馳走。この火にあたりたいから来てるんです」その言葉で、ふと思い出したことがある。
東日本大震災が起きた直後、料理専門誌でピッツェリア特集を組んだのだ。
店内の薪窯で職人が焼くピッツァ。家族みんなで食べられ、ピースフルな丸い形、そして火が鍵だった。
担当編集者が「誰もが不安な今こそ、人は火を囲みたくなる」と話していたことを覚えている。
そして2016年の今、東京には薪焼きや炭焼きの新店が目立ってきた。“
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bar ル・ヴェール 秋田
“「妥協しない、ということは”こういうものを作るんだ” という強い意志がなければできません。
作りたいカクテルがあって、それに必要な道具が無いなら、作るしかないでしょう」“
「バーのおもてなしは五感です。たとえば花を飾るだけでは、目で癒されるだけで体は癒されない。
耳(音)でも、鼻(香り)でも、手や唇(触感)でも、舌(味)でも心地よいと感じて初めてやすらげます」
その逆、不快なものは見せない、聞かせない、一切感じさせない。
棚に並べたボトルに埃がかかっているのは論外だし、シェイカーやグラスなどには曇りがあってはならない。
店の人間が出す不用意な音にも神経を注ぐ。
たとえば私的な会話はもちろん、水道の水がシンクに当たる音、氷を容器に入れる際のガラガラという音、
冷蔵庫のドアを開閉する音。
たしかに、音には人の気分が乗り移る。冷蔵庫のバタン!という音が聞こえると、イライラしている気分が
移ってしまうものだ。”
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この本を読んでいると、昭和から数十年以上続いている老舗店の続けれられる理由のようなモノが見えてきます。
分子ガストロノミーが科学で明かしたことを、肌で感じて実際に体現しているような気がしてなりません。
続くのには理由がある。理由なく続く店なんてないのかもしれませんね。
著者が惹かれる理由=店が長く続く理由なのかもしれませんね。
とても、勉強になりました。