CMディレクター仲野哲郎の「シズル」って何?70

   

今日は、道元の「典座教訓」からのメモです。

   

道元 1200-1253。鎌倉時代初期の禅僧。日本の曹洞宗の開祖。

南宋で停泊している時に、典座の役職にあった僧と出会い、

帰国後、寺院の規律を保つために「典座教訓」を著した。

食と仏道を同じレベルで語った本からのメモです。

   

   

”建長寺では、ずり出し(うどん)を時としてする。
この時は、食堂で大釜を囲んでいただく。
僧堂備えつけの丼鉢に、しょう油、ねぎ、みつば、みょうが、しょうが、大根おろし、茄で春菊、白ごまの荒ずり、から炒りしたトロロコンブ、ゆばなどの薬味。
干麺の茄で汁で味を見て、釜からうどんを引きずり出して、すする。いや、呑み込むといったほうがいいか。それも間断なくである。
日頃は、黙食であるが、ずり出しは、どれほど音を立てても、文句はいえない。
音も立てないうどんなんて、死にかけた病人と同じで、その音たるや、ザザザーツ、ゾゾゾーツ、ナイヤガラの滝にも劣らない。
その音は、日頃と違って、さらに解放感を呼ぶ。
だから、なおさら食が進む。
ずりだしはダイナミックにいただく。これが、本妙である。

ぜんおまけに、日頃は三膳と限られているが、いくら食べてもいい。
典座は状況を見ながら、追い茄でしたり、薬味を作ったり。僧堂全体がお祭りである。うどんを呑むリズムが、カラッと晴れた日の突然の課雨。一切が無の状態である。この景色は世間広しといえども、僧堂ならこそである。スピード、大爆音。
僧堂の青春である。
よくぞ雲水になりにけりである。うどんを食すのは天下の雲水ではない。阿羅漢(初期仏教などで、一切の煩悩(ぼんのう)を断ち生死を離れた、仏教修行の最高段階。)そのものである。
はなはだ申し訳ないが、これだけは、天皇さまも味わえないと思う。
三界の大導師にだけ如された特権だと、今でもぼくは懐かしい。”

   

なんてシズル文章!景色が目に浮かぶようです。

以下。シズルとは少し離れますが、とても素敵な文章なのでメモしておきます。

  

   

”ーには 食材を管理するには、自分の瞳のように大事にしよう。
ニには 米を洗い、菜を調える時、真心をこめ細心の注意をはらおう。
三には 「三徳六味」をそなえた食事作り。
四には 食材の量、質の良し悪しに一喜一憂せず親切丁寧に調理しよう。
五には たとえ粗末な汁をつくるときも、手抜きをしてはならない。
六には たとえ上等な牛乳入りの料理でも、特別な心を起こしてはならない。
七には 執着を払うのが、仏道修行である。
八には ご飯を炊くには、お釜が自己となる。
九には 米をとぐときは、水そのものが自己となる。
十には 食材と道具は自己そのものなり。分離することなかれ。
十ーには 食事を作ることは有り難きこと、喜びの心をもとう。
十二には 食べ物をあっかうには、親が子供を思いいたわるような心をもとう。
十三には 食事をつくる姿勢は、一方に偏らないという大きな心をもちなさい。”

   

   

”昔の典座は、全身で勤めた。食材と一体であった。
後進のわれわれは、どうしゆるて怠けていられよう。
気を赦してはいけない。まして、選ばれた典座ではないか。
心の絆をしっかり結んで、日々精進すればいい。それが悟りへの早道である。
飯や味噌汁、小菜を切るにしても、理に叶い綿密に、つまり、親切心で仕事をすべきである。
よくいわれた言葉に、人が食べるんじゃない。自分自身が食べるつもりで調理していけ。
いうのがあるが、典座の心得の第一歩である。

よく、先輩は、「一粒米重きこと須弥山(古代インドの世界観の中で中心にそびえる山)の如し。」
というのが口ぐせであった。お米だけではない。あらゆる食材も同じなのである。
別の先輩は、「わが命と同じ重さ。」
とも、後輩に語った。わが命そのものだから、細心にわが身をふり返って調理していれば、出来上った料理も浄潔になっている。
「文は人なり。」
これだよ。と言った典座の先輩もいた。”

   

   

”典座は、食事を調理するにあたって、世間一般の見方、考え方ではいけない。
わずか一本の茎、葉とはいえ、荘厳な大寺院となり、たとい小さな根っ子、米粒でもお釈迦さまの大法説と変らないのだ。

だから、粗末な菜っ葉汁、おひたしを作ろうと、馬鹿にして軽く見、侮ってはいけない。
また、ぜいたくな材料を使って調理しようと、有頂天になるなど、もっての他である。
執着する心がなければどんな材料でも、疎かにすることはないはずである。

そうであれば、粗末な食材を与えられとしてもいい加減にせず、反対に上等なものであってもさらに頑張って最上のものを作るように心がけなさい。
食材によって心を変えたり、人を見て言葉や態度を改めるのは真の修行僧とはいえない。

心を強くもち無心にして、願わくば、心清らかな事は先徳にまさり、至心にして綿密にしていくことは祖師のさらに上をいくことを。
先徳は、たとえば、わずか三銭のお金で買ってきた少量の粗末な野菜で、ありきたりの、その程度のおかずを作ったとしても、
私ならその三銭を有効に生かして、とびきり上等に作ろうと心がける、というようなものである。これは大変難しいことだけれども。
それは、どういうことか。昔と今とは人間に雲泥の差があるからである。どうして昔と肩をならべることができようか。
だが、与えられた仕事を、無心になって色々細やかに気配りをし、打ち込んでいけば、先徳と肩を並べられる。
いや、それ以上のことは、必ずなし得ることができよう。
それはただ一つ。

道心があれば、必ず通じる。

   

   

”道をわきまえない人は、心得のある、奥義に達した人にめぐり会えない。
会っていても気づかないのは叩れで悲しむべきことである。
せっかく宝石の山に入っても、手ぶらで帰り、真珠や珊瑚の海へ入っても、何―つ得ることもないに等しい。
その前に、典座を勤めることで、悟らなければという心が、まだ芽生えなくとも、仏徳を具え持たれた人に会うだけでも、悟りに近づいていることになる。
また、よしんば会えなくとも、常に願心さえ持ち続けていれば、それだけですでに、悟りの世界に一歩も二歩も近づいているのだ。
このことを、よく心の底から肝に銘じておきなさい。”

   

   

すべての仕事に通じますね。

典座教訓-道元 藤井宗哲訳 | 2021 | 未分類 | Comments (0)