CMディレクター仲野哲郎の「シズル」って何?80

   

今日は、原田信男さん著「食べるって何?-食育の原点」という本からメモしようと思います。

原田信男さん。日本生活文化史学者。国士館大学教授。

   

この本は、「食べる」という行動がどういう意味を持っているのか?

食べる為に発展した農業が戦いを産んだ?

など「食べる」に関わる興味深い文章が多くありました。

   

”まさに人間たちは、農耕という知恵によって、生きていくべき運命が定められました。

エジプトでは、豊作時に国家として糧食を貯えていたため、飢饉にも困らなかったばかりか、飢えにあえぐ周辺の諸国の人々が、

食料を求めてエジプトに買いにきた、と記されています。農耕というシステムは、その技術が発展すれば、確実に剰余を貯えることが可能となるのてす。

そもそも国家の形成には、さまざまな役割を分担する社会的分業の成立が前提となります。

これは宗教も同じで宗教に専念する人間、国家の政策や実務に従事する人間、あるいはさまざまな技術を駆使てきる人間の存在が必要です。

そして、この社会的分業を可能とさせるためには、社会的剰余が必要となります。

たとえば、100人で農業を営む村があったとします。ところが農耕技術などの発展により、生産力が高まって、80人で全員のじゅうぶんな食料が得られるようになると、

20人は食料生産以外の仕事に専念することがてきます。この20人分の食料を社会的ちくせき剰余といい、この蓄積によって社会的分業が可能となりました。

古くは祭政一致という言葉があるように、祭祀つまり宗教と、政治すなわち国家とは、表裏一体のところがありました。

そして農業ではなく祭祀や政治に従事する人物が、それぞれの社会を統率、指導してきました。

社会的剰余により、さまざまな専門技術集団を組織することで、社会的分業を編成する国家というシステムが成立をみたのです。

残念ながら狩猟採集社会では、高度な文化や国家を成立せしめる社会的剰余は、なかなか生まれにくいことも確かです。

よりプロダクティブな牧畜や遊牧という技術も、豊かな文化を形成しましたが、農耕レベルの高い社会的剰余を期待するには難しいものがあります。

晨業が最も索晴らしいものだとは思いませんが、それが剰余を生みやすいことは事実てす。

とくに農業のうちでも、根栽栽培と種子栽培では、後者の方が剰余という点ては有利となります。

これは保存の問題で、根茎植物には、腐りやすく備蓄が難しいという欠点があります。

根栽農業が発達した東南アジアや南アメリカに、国家が出現するのが比較的遅いのは、このためだと考えられます。

これに対して種子農業は、種子のまま何年もの保存が可能ですから、貯蓄に適して社会的剰余を生みやすく、

そうした社会には、強力な国家が形成されやすかったのてす。

ただ種子農業には、水の管理が重要な問題となります。とくにエジプト文明・メソポタミア文明などが、

壮大な王宮や王墓を持つのは、灌漑用水の整備により、生産力が高まった証拠てす。

また同時に、そうした土木工事を指導した王たちの力が、多くの農民に支持・賞賛されたためだ、といっても良いでしょう。”

   

面白い文章です。農業、種子農業によって社会的余剰、分業が可能になり、高度な文化や国家を成立させたんですね。

農業はやっぱり偉大ですね。

次の文章は、偉大な農業が産んだ負の遺産です。

   

”確かに農耕は、素晴らしい文化なのてすが、ことはそう単純てはありません。

ここで少し農耕の負の側面をみておきましょう。まず第一の問題として、高い社会的剰余を生む農耕が、戦争を引き起こしたという事実があります。

この問題については、考古学者の故佐原真さんが、日本の弥生時代を論じながら、再三、喚起を促してきました。

私なりの要約をすれば、次のようになります。

たとえば川上にA村、川下にB村があったとします。川下のB村は、しばしば洪水て作物が全滅して食料に困れば、

一年目は、なんとかしのなんとか凌げても、二年、三年と続けば、B村にとっては死活問題となります。

もし、この時にA村に豊富な食料があった場合はどうなるでしょうか?

初めは交渉でうまくA村から調達できたとしても、やがて死ぬか生きるかて極限に追いつめられると、

B村がA村の剰余をねらって襲うことはありえます。

こうした苦しい 事情のなかで、戦争という行為が起きたとしても、戦いによって富が自由に手に入ることを知れば、

エスカレートして戦争が恒常化していきます。

農耕が貧弱であった縄文時代には、集団的な争いがなく、農耕が本格化した弥生時代に戦争が始まったことを、いくつかの角度から証明しました。

まず文献的には、二世紀中頃の『後漢書』東夷伝に、「倭国大いに乱れ」とあり、いくつかの集団が戦争をくり返していた状態にあったことが記されています。

さらに専門の考古学の立場から、縄文人の人骨には、武器を用いた集団的殺人の形跡がありませんが、

弥生人の骨には、首のないもの、斧などの威力て陥没した頭蓋骨、骨にささった鏃や刀痕が、しばしば見られることを指摘しています。

また弥生の集落には、防禦施設てある堀が廻らされたり、吉野ヶ里遺跡のように砦といこうしての構造をもつ遺構が確認されています。

さらに世界史的に見ても、砦の出現と農耕の開始とが、ほぼ同時期てあることなどを指摘しています。

なお近年では、弥生の戦争が、こうした自然発生的なものてはなく、朝鮮半島からの水田稲作とともに伝わった一つの”文化“だと考えられています。

いずれにしても、農耕による社会的剰余の成立は、戦争を招く大きな要因となったことにまちがいはありません。

農耕が生んだ文明のうちでもインダスには、巨大な王宮や王墓がなく、戦争の痕跡は薄いのてすが、これはインダスにおける農耕の在り方に関係します。

つまりインダス水系ては、夏季モンスーン後の氾濫源を利用する農耕が主流てしたから農耕地は小規模で、絶えず移動する必要があったと考えられています。

それゆえ強力な王が出現せず、戦争も起こりにくかったのてしょう。かえって貧しいとされる社会に、犯罪は少なく、それは豊かさを知った社会に起こりやすいというのが、歴史の現実なのです。

たとえば、飢饉て潰れる村が多かった信濃と越後の境にある山村・秋山郷は、貧しいいまけれど犯罪者がおらず、未だに警察分署がないといいます。

またアイヌの人々の社会には、死刑にあたる罰則はなく、凶悪な犯行が起こらなかったことを窺わせます。むしろ富みにあふれて貧富の差が大きい都市にこそ、犯罪が起こりやすいという事実を想起すべきでよう。”

   

”日本の歴史のなかて、天皇が祀るコメは、まさに”聖なる”食べ物として、神聖視されてきました。

白いこ飯は、銀舎利と呼ばれますが、仏陀の骨にも見立てられてきました。

私たちの世代まては、ご飯を一粒でも残すと、親から叱られたものてす。

農学者の渡部忠世さんは、日本人は米食民族てはなく、米食悲願民族だと指摘していますが、確かに日本人はコメばかりを食べ続けてきたのてはなく、コメを食べたいと願い続けてきた、といった方が正確てしょう。

弥生時代以来、2000年以上も、日本ではコメ作りが行われてきましたが、ほぼだれもが白いコメだけのご飯を腹一杯食べられるようになったのは、実に19600年代のことです。

しかし1960年代以降には、食生活の洋風化に伴い、コメの消費は低下の一途をたどります。

ただ減反政策を続けながらも、全般に低い食料自給率のなかて、唯一主食用が100パーセントに達しているのは、コメにこだわり続けた歴史の成果と考えていいでしょう。”

   

とても興味深い文章がたくさんありました。

「食べるって何?」とても良い本でした。ごちそうさまでした。

食べるって何? 原田信男さん著3 | 2021 | 未分類 | Comments (0)